人の心を掴むのにはまず胃袋を掴むべし。…そんな言葉が頭に浮かんだところでリビングの扉が開かれた。二人して振り返れば鏡の前で睨めっこしていたニールだ。

「あれ?ズボンも変えたんだ?」

ぺたぺたとスリッパを慣らしながら近づいてきたニールは、さっきアドバイスした通りインナーを押し付けた淡いベージュの方に着替えていた。それに一先ず…よし、と思っていたら下がぴっちりジーンズではない事に気付いた。

「んー。ショートブーツが見つからなくってな。」
「ママが直しちゃったんじゃないの?」
「かな?だもんであのジーンズも諦めた。」
「ふぅん…」
「…なんだよ…まだおかしい?」
「いや?いいんじゃない?」

ちょっと困った表情をしながら椅子に腰掛けたニールの足はカーキ色のワークパンツに変わっている。じっと下から上まで見てたらニールの不安そうな顔まで辿り着いた。その顔ににっこりと笑いかければ小さくほっとしたのが分かってしまう。

「あ、そうだライル。今日は父さんと母さん、出かけてるから。」
「あぁ、結婚記念日だっけ。」
「そ。お昼ごはんは冷蔵庫に入ってるってさ。」
「りょうかーい。…って、兄さんは?」

ニールの口ぶりから察するにニールも出かけるような雰囲気だ。けれど昨夜は何も言っていなかったので思わず聞いてしまった。するとどうだろう?…びくり…と肩を揺らすものだからライルとエイミーはきょとん、としてしまう。

「ニル兄?」
「兄さん?」
「あ…うん。待ち合わせ…みたいな…」
「みたいって何?」
「ちょ…ちょっとした寄り道だよ!」
「「ふぅん?」」
「ほら!エイミー!そろそろ出発時間だぞ!」
「あ、はぁい!」

見るからに焦り出したニールが時計を確認しながらエイミーを急かす。その場しのぎにも取れるが出発時間であるのも確かだ。「…逃げたな…」とも思ったが今のところ突っ込んだとてまともに応えてくれそうにない、と判断したライルはそれ以上聞くことを諦めた。わたわたと鞄を掴みニールの後を追うエイミーの更に後ろから着いていって玄関から見送りをする。

−今のトコ泳がせますか。

と、どこか刑事のような事を考えて朝食後の二度寝を企むのだった。

 * * * * *

その日は朝から念入りに準備を進めていた。
三人暮らしに一戸建てというのは中々広いとは思うが、完全防音設備に、各々完全なるプライベート空間を持てるという点で妥協することとなった。西洋風なレンガ造りの二階建てに周囲をぐるりと鉄柵が囲い、庭の一角には離れのようなテラスも存在していた。
このニホンという平和な国に来て特技を生かし職に就いた主は最近ピアノ教室を始めた。とはいえ、それは趣味の教室としてなので副職というものだ。本職は平日五日間あるのでピアノ教室は土曜と日曜のどちらか。毎日働き詰めというのも体に悪いので反対すれば土曜日のみ、生徒は一人だけ、という形で決着がついた。さっそく生徒を募集しよう、としたところチラシを配りに行った公園でさっそく生徒を得たらしい。

「…あとは焼き上がりを待つだけだな…」

閉じたオーブンの前で一息つくとカウンターの向こう側にあるソファに座りながらそわそわと落ち着きの無い主を見て苦笑を漏らしてしまう。
生徒として通ってきている子は随分歳が離れているにも関わらず妹のようで可愛いのだ、と豪語している。そんな彼女は見た目に反して料理、裁縫など家事はからっきし出来ないので自分が代わりにやっているのだが…必要に駆られてしていたはずが、いつの間にやら担当になってしまっている。それどころか、時々遠慮がちに持ってくる彼女のリクエストに悉く応えている辺り「仕方なく」という言葉はすでに意味をもたない。
つい先週も街中を歩いていたらケーキ屋に差し掛かり、ウィンドウに飾られていたガトーショコラなるものが美味しそうだったというので焼いてしまった。そうすれば案の定、いたく気に入ったらしくピアノ教室の生徒にももたせてやりたいと言い出す。特に問題もないし、主がそういうのであれば、と包んで紙袋に入れ渡せば次の日、母親と一緒に態々お礼に来てくれた。
温和な主と物腰の柔らかい母親とで会話は進み、土曜日にお昼を一緒しないかという方向へ向かい…

今に至る。

話し合いをしていたところに己も参加し本日のメニューを決めた。お菓子などと違い食事である為、味付けを失敗しても作り直せるようにと朝から取り掛かっていたのだが…どうやら取り越し苦労に終わったようで順調に仕上がっている。主に味見もしてもらったが特に問題はなかったようだ。

「マリナ…クッションの形が変わってしまっている。」
「え?あ!」

よほど楽しみで手持ち無沙汰なのだろう、ソファに置かれているクッションの一つを抱えて意味もなくぐにぐにと揉み込んでいた。その為正方形だったクッションは今や長方形に変形してしまった。少し落ち着く為にも彼女お気に入りの紅茶を入れて手渡せばあっさりとクッションを手放してくれる。そのクッションを拾い上げて元の形に戻るようにと別の方向から揉み解し始めた。

「ごめんなさい…何から何まで頼りきりで…」
「構わない。レンジを爆破されるよりいい。」
「もう…あんなこと…二度としないわ。」
「あぁ。けれど気にしなくていい。俺としても色々な知識を仕入れられるから楽しい。」
「そう…」

素直に告げているはずなのに主…マリナの表情は曇ったままだった。それでも、ピアノ教室に来ているあの少女が来て以来、これでもよく笑うようになった方だ。ならば何故今笑っていないのか…きっと自分に問題がある…マリナの隣に腰掛けた青年はそう考えていた。

「……刹那…?」
「…何だ?」
「ありがとう。」
「……あぁ。」

少し寂しげに、けれどふわりと微笑まれながら呟かれた言葉は青年が…刹那がいつもどう応えればいいか分からないものだった。
アンティーク調のベルの音に刹那は立ち上がり、レトロな建物の雰囲気に似合わない現代的なインターフォンのカメラを確認しに移動する。彼の後に残されたのは元の形に戻ったクッションだった。それをマリナが指先で突付いていると刹那に呼ばれる。

「マリナ。客人が到着したようだが。」
「あ、私が出る。」
「転ぶなよ?」
「そこまでドジじゃないわ。」

くすくすと笑いながら小走りに目の前を通り抜けていったマリナを視線だけで見送りキッチンへと戻っていく。そろそろオーブンの様子を伺ってもいい。…と思った時玄関の方から派手な音が聞こえてきた。

「………玄関マットで滑ったな…」

片手にミトンを着けながら顔だけ玄関の方へと向けて小さくため息を吐き出した。なんとか立ち上がって体裁を整えつつも玄関を開いたのだろう、少女の元気な声が聞こえてきている。いつも少女を迎え入れるのは彼女なので通常ではどうかは知らないが、どうやら少女の方の声を聞いているとはやり時々同じ事をしているらしい。会話の調子から大丈夫だと判断した刹那は丁度タイマーの音を鳴らし始めたオーブンを開いて焼きあがったドリアの具合を確かめた。

「…は…い………ます。」
「……え、こちら……」
「後でねー!」

僅かに聞こえる会話に耳を傾けていると、どうも少し引っ掛かりがあった。マリナの声と少女の声…そして第三者の声は母親だと思っていたが、どうやら声の質が違う。けれどマリナの反応からして母親と同じくらいに顔なじみのようだ。
刹那の土曜はいつも昼までには休憩がてら食べるようにとお茶やお菓子の準備をして、ピアノの練習の邪魔にならないようにと少女が来る時間帯には芝生公園へ出かけていた。最近は猫の親子も見つけてそれなりに居心地がよくなりつつある。その為か、習いに来る少女をよく見るのも実は今日が初めてだ。日曜に母親と一緒にお礼に来ていたが、刹那が顔を出してからはほぼ母親の影に隠れていたので『エイミー』という名前は知っているが姿はあまり知らない。
そんな状態でいたせいか、送り迎えはいつも母親がしていると思っていたが…どうやら違うらしい。

−声音は…まだ幼い音がある…兄弟…か?

キッチン台の上にバットを置いて中の焼け具合を確認しているとマリナが少女を連れてリビングに戻ってきた。

「お待たせ。」
「いや、丁度いい。今焼きあがったのを取り出したところだ。」
「………」

出来上がりを見えるようにと一つ取り上げて見せると「まぁ!」と言って両手を合わせてくれる。下のほうから熱い視線を感じて顔を向けるときらきらと瞳を輝かせた少女がいた。そっと屈んで少女にも見えるようにとすればこちらも感激の声が零れた。

「あとはテーブルに運ぶだけだ。…時間としてはまだ早いが…どうする?」
「えと…そうねぇ…焼き立ての方が美味しいでしょうし…エイミーちゃん、どうする?」
「あ、大丈夫です!朝ごはん早く食べてきたから!」

しゅびっと手を挙げて主張する少女に2人は顔を合わせて頷きあうとマリナはエイミーをテーブルの方へ案内してくれる。すでにセッティングの済んだテーブルに2人がつくと、刹那は2人分のドリアをトレイに乗せて運んでいった。他にグリーンサラダとスープを運び終えるとふと刹那はエイミーの顔をじっと見つめてしまう。
粉砂糖のような白い肌にふわふわとしたミルクティーブラウンと翡翠のような瞳。その取り合わせに何故かデジャブを感じてしまった。

−……あぁ。

少々考えてしまったにも関わらず二人に悟られなかったのは料理へ夢中になってしまっていたからだろう。すぐに出てきた答えに刹那は食後の飲み物を用意する為にキッチンへ戻ると、それとは別に準備を始める。

「…マリナ。すまないが少し出る。」
「え?」
「食器などはいつも通りで構わない。食後のデザートは冷蔵庫の上の段に入っている。」
「あ、うん。」
「もし食べれなくても三時のティータイムで出せばいい。」
「えぇ。…どこへ行くの?」

食後の飲み物をいつものようにカウンターに用意して準備した物を手頃な紙袋に詰めると、それを片手にキッチンから出て近づいてきたマリナにてきぱきと言付けをしていく。それが終わるとことんと首を傾げて尋ねられた。

「…待ち合わせをしている。」
「え!約束あったの?!」
「いや、約束はしていない。」
「えぇ??」
「相手は猫の家族と…子犬が一匹だから。」

少しおかしげに答えるときょとんとした顔をされてしまった。

 * * * * *

「………だよなぁ〜…」

芝生公園の一角でニールは座り込んで桜の木に凭れていた。そこは土曜に通りかかる際、いつも青年が座って本を読んでいる場所だ。ついでにいうなら必ず仔猫がセットになる場所でもある。
けれど今日は時間が早いせいかどちらの姿も見当たらない。

−いつもいるっつっても…一日中いるわけじゃねぇよなぁ…

あー…と言葉にならない声を上げて真上に咲く桜を見上げて瞳を閉じる。今日はいつもよりももっと早い時間だから長い間いられるという事と、今日こそは声を掛けてみよう、と昨日の晩から決意を固めていた。まずは自己紹介して名前を聞いて…いつもこの公園に来ているのかなど…他愛のない話が出来ればいい。いや、名前が聞けるだけでもいい、と色々脳内シミュレートしていたのにこの様だ。

−…俺っていつもこうだよな…

まるで返事をするようにお腹がきゅるる…と小さく鳴く。余計に悲しくなってきた。ここで待っていたら会えるかもしれないが、自分がここに座っているから他を探していってしまう可能性だってある。ぐるぐると空腹で上手く回っていない頭で必死に考えているとふと暗くなった気がした。少し億劫げに目を開くと紅玉が意外なほど近くにあってびくりと体を跳ねてしまう。

「ッ!?」
「起きたか?」
「い、いや…起きたってか起きてたってか…」
「そうか。周りと綺麗に同化していたから遠目では分からなかった。」
「どう…か?」
「芝生の緑と桜の幹の色。」

ぱちぱちと瞬きを繰り返して自分の座っている状態を見下ろしてみると、確かに着ているパーカーの色が影の中の芝生の色に近いし、自分の髪の色が桜の幹に似ているように思う。

−確かに…同化するかも…
「……似てるな…」
「へ?」
「いや。」

ぽつりと囁いた言葉に顔を上げると逆光の中でふわりと微笑みを浮かべる顔があった。

「ところで…」
「はい!」
「どちらか寄ってくれ。座れない。」
「あ、はい!!」

思わず見とれていると小首を傾げながら言われ、慌てて右へ寄ると空けた場所に腰を下ろしてくれた。そこでふと気が付く。

−……会話!出来た!!!

思わず正座してしまった膝の上で両手を握りこぶしに変えていると隣で青年が左腕を翳した。どうかしたのか?と振り向けば腕時計を確認しているようだ。

「…いつもの時間帯よりも3時間早い…」
「うん?」

再びぽつりと溢された言葉に首を傾げていると時計に向けられていた顔がくるりとこちらへ向き直る。

「俺が来るまでずっとここでいるつもりだったのか?」
「え?」
「空腹のまま?」
「あ、いや!腹は減ってな…」

−きゅるるるるる…

「………」
「………」
「………」
「……正直だな。」
「〜〜〜ッ」

くすり…と小さく笑われてニールは顔を真っ赤にすると腹を抱えこんでしまう。

−恥ずかし過ぎる!こんのバカっ腹〜ッ!!!
「ほら。」
「…へ?」
「あり合わせな上、少ないかもしれないが…」
「…これ…」
「俺が作ったから変なものは入れていない。…あぁ、口に合えばいいが。」

ぽん、と渡されたのはラップに4個を一纏めに包んだバターロールのサンドイッチだ。ちらりと横を見ると彼の手にも同じものが乗っている。その向こう側に小さい紙袋が見えた。

「…食べて…いいの?」
「…嫌いでなければ。」
「全然!いっただきます!」

これは夢か?と思わず呟いてしまった言葉に首を傾げながら言われると、慌てて合掌をすると勢いよく齧り付いた。

「!…ポテト!」
「ん?あぁ、ジャーマンポテトを挟んだんだが…不味かったか?」
「ううん!めちゃ旨い!大好物!」

瞳を輝かせてほくほくと食べ進めるその様子に刹那は淡く笑みを刻んだ。少年らしいその元気良さが見ていて心地いい。自分の分も紙袋から取り出して口に運ぶ。成長期の少年には少々少なかったかな、とも思ったが、ぺろりと平らげたニールは合掌して「ごちそうさま」と告げると満足そうに笑みを浮かべて包んでいたラップを丸めていった。


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