春の訪れとともに桜が舞い散る暖かな土曜の昼下がり。
父さんの転勤に伴って引っ越してきた日本の首都、トウキョウ。引っ越してきたのは小学校に入学する前だったから転校の寂しさなんかはなく、すでにトウキョウの一、住人となってしまっている俺は妹のエイミーを連れて近くの公園を横切っていた。
そしてふと目に付いた…
忘れもしない…その光景を見たのは友達の中で一番遅い自分の誕生日が訪れた次の日。エイミーを、母の代わりに通っているピアノ教室まで送っていく道すがらだった。
最初通った時は特に気にはしていなかったが…送り届けての帰り道。再び公園に足を踏み入れた俺はその光景に釘付けになってしまった。

地域内でも一番広い芝生公園はその名の通り敷地の9割が青々とした芝生が生い茂っており、遊具もなく、噴水やお年寄り向けのベンチがぽつぽつとあるくらい。だから俺達がこの公園に来るとしたらキャッチボールをするくらいのもので、滅多とこない場所。サッカーは歩いている人に当たると危ないという理由で、したければ河川敷のグラウンドまで行かないといけない。

まぁ、とにかく…そんな芝生公園の片隅。石畳の遊歩道から少し入った場所にある桜の木の下で座り込んでいる一人の人物がいた。真上から照りつける太陽の日差しを木の葉が程よく遮っているその場所に座り込んだ人物は…まるでその空間だけ切り取られたような雰囲気の元、胡坐を組んだ足の上に分厚い本を広げて黙々と読んでいる。

少し丸まった背中と俯き加減で顔はよく見えないがあちらこちらとひょこひょこ撥ねている髪は天然なのだろうか、風に揺られている中で白い上着に紺のジャケット、黒のズボン…首にはマフラーだろうか…赤い布が巻かれていた。

じっと見ていれば一定時間を置いて指先が器用にページを捲っていく。とりあえず、寝てはいないらしい…
何気なく見たつもりが目を離せなくなって突っ立ったままになってしまった俺に気付いていないのだろう、本に没頭しているその人物の上体が不意に真横へ傾いた。もしかして倒れるのか?と思わず一歩踏み出したら本を支えていた左腕が体の後ろへ回される。その動作に踏み止まると前へ戻された手の平には子猫。

「…へ?」

ぱちくりと瞬いていたら手の平にすっぽりと収まる子猫はそのまま持ち上げられて…ついでにその人の顔も上げられる。…と…

−…男の人…

いや…座り方とか体…まぁ…ぶっちゃけ胸の辺りとか見れば女の人じゃないって思うけどさ…線の細さにもしかして?…とか思ったのも事実で…
何故か言い訳めいた言葉を頭の中にぐるぐると並べ立てていると、その青年は顔の高さより少し上まで子猫を持ち上げていた。
髪に隠れて見えなかった顔…きりっと持ち上がった眉…薄く開かれた唇は瑞々しく…堀の深い造りはエキゾチックという言葉がぴったりで…伏せてて分からなかった吊り気味の瞳は紅玉のような紅色をして…東洋人にしては少し黒い肌の色から彼も移住してきたんだろうと思う。

−…どこだろう?…黒髪に蜂蜜色の肌って事は中近東とか…イスラム周辺かな?

そんな推理をぐるぐるとしていたら不意を突かれた。
全くの無表情だった表情がふわりと笑みを象っていくのをスローモーションで見てしまったんだ。
柔らかく細められる瞳。弧を描く唇。きゅっと上がっていた眉も多少下がって…小さくか細く鳴く猫の声に鼻先へキスを贈っている。キスへのお礼なのか…子猫もすっと通った鼻梁を舐めると小さい手足をぱたぱたと動かし始めた。そっと手を下ろして子猫を膝の上に下ろしてやると細長い指先で頭を撫でて首元を擽る。器用にも本を読みながら…顔もまたさっきのように俯いてしまいながら…それでも指はまったく別のように動き、膝の上の猫をあやし続けている。
その状態がどれだけ続いただろう?…気付けば子猫は指に縋り付いて丸くなり、眠ってしまっている。遠目にも確認出来るほど寛ぎきった姿のその子猫をふと見た後、青年は本を閉じておもむろに立ち上がった。手の平に収めた子猫の方も起きた様子はなく、手からはみ出している尻尾もぷらん、と垂れ下がったまま。

「!」

突然こちらに背を向けて歩き出してしまった。思わず一定の距離を保ちながら付いていくと芝生公園の角にある茂みへと向かっていく。茂みの前で止まった歩みに俺は咄嗟に近くにあったベンチに腰掛けて偶然を装った。ちらりと横目に伺っていれば青年はその場でしゃがみ、しばらくしてまたすっくと立ち上がって公園から出て行ってしまう。さすがに後を追うなんて出来ないのでそっと立ち上がって青年がしゃがんでいたあたりを見に行ってみた。

「…猫の親子…」

さっき青年の手の平に乗っていた子猫の他にもう2匹ほど子猫がいて、その横に母猫であろう猫が寝転がっている。子猫たちはその母猫に寄り添うようにくっ付いて穏やかな午睡を貪っているようだ。青年に連れられた子猫もその中にいて、母猫に頭を舐められていた。

 * * * * *

「1本も〜らい☆」
「あ〜!ライ兄ずる〜い!それニル兄の分なのに〜!!」
「ぼ〜っとしてるニールが悪いんだよ。」
「も〜…ニル兄もなんとか言ってよ〜。」
「………」

今日の三時のおやつと称されて用意されたのは厚切りのポテトフライ。中はほくほくして外はカリカリになっているそれは塩味だが、お好みでケチャップをつけてもいいように小皿が用意されている。一般家庭の子供が大喜びするおやつといえば、プリンやホットケーキなどかもしれないが、生憎この家…ディランディ家の子供はジャガイモが大好物なのでポテトフライはいつも争奪戦が起きるものなのだ。母もそんな争奪戦を考慮したのか、三人分を別々の更に盛ってくれるようになった。
なったのだが…

「…ニル兄?」
「…兄さん?」
「…ん?…あ??」

アイルランドから移住してきたディランディ家の子供は、双子の男の子とその下に女の子の一人で計三人。揃いのミルクティーブラウンとエメラルドグリーンの海の色の瞳に白磁の肌をした、近所でも人気のあるとても愛らしい仲良し兄弟だ。双子は鏡を使っていると言っていいほど全く同じ容姿で違いなど分からないほどだ。けれど長年連れ添っていれば個々に持つ雰囲気の違いや性格の違いから見分けがつくのだろうけど…
2人の間に座ったいたエイミーの目の前を、双子の弟ライルの手がポテトを一切れ掴んで通過していく。その光景にエイミーがすかさず反抗に出たのだが、当の被害者であるはずの長兄ニールが何の反応も返さないでいたのだ。

「なに?」
「なに?じゃなくて…」
「ニル兄のポテト、ライ兄が食べちゃったよ?」
「そうか?」

言われてぼんやりと皿に視線を落とすから余計におかしい。
ここのところニールはこんな感じだった。
前ならば兄弟の中でも一番目敏く、ダメなことはダメだと母親の如く叱ってくれる存在だったはずが…どうも最近ぼんやりとしていることが多い。かと思えば長々とため息を吐き出してみたり…

「……まさか。」
「ライ兄、何か知ってる?」
「知ってるっつーかさぁ…」
「なぁに?」
「…恋じゃね?」
「コイ?」
「そ。ラヴの方の恋。」
「ほえぇ…」

にんまりと笑うライルの言葉に顔を輝かせるエイミーが兄を振り返るが、当人は再び思考の海へと沈んでしまっていた。

 * * * * *

ニールの変調はそれだけではなかった。
ライルの発言からエイミーが注意深く見ていたのだが、ニールはいつも土曜の朝からそわそわしだすらしい。土曜は学校が休みとあって親が起こしに来ないのをいい事にライルは朝寝するのでそんなニールの姿を知らない。せっかく情報を得たので久しぶりに学校へ行く日のように起きれば廊下の姿身の前にいるニールを見つけた。

「………」

どうやらライルの存在に気付いていないらしく鏡に映る自分の姿をじっと見つめている。かと思えば髪の撥ね具合を見たりくるりと巻く毛先をくいっと引っ張ってみたりしていた。普段は全く気に留めない髪型を随分気にしたあとは上に羽織っているパーカーの裾をひっぱり今度は服の組み合わせをみているようだ。

−こりゃ…重症かもしれないな…

廊下の端にある柱に凭れ、腕を組んで堂々と見ているのにニールは全くと言っていいほど気付いていない。しかもいくつか組み合わせを確かめていたらしく、近くに置いてある丸椅子の上に上着が何枚かかかっているのが見えた。だが、その服を見てライルは眉を顰める。

−おいおい…そりゃないだろ…

…こう言ってはなんだが…ニールは服のセンスが悪い。今着ているのはティーシャツの上からパーカーを羽織って、下にはお気に入りのジーンズを合わせている。この表現だけなら普通なのだが…残念ながらここに色々と付加されるものがあった。

履いているジーンズは成長を考えた上で少し幅の大きいものを買い与えてくれていた親のお陰もあって、長年愛用しているジーンズだが…そろそろサイズにも限界があるだろうと思われるぴっちり具合だ。しかも裾はくるぶしがほとんど見えてしまっている。それはショートブーツを履けば隠れるし、それなりにみえるかもしれないが…ライルの頭にはどの靴を履くのか分かってしまっている。

−昨日玄関に出してたスニーカーを履く気だろうな…

昔流行ったと言われるデギンスだとか言い張るのもいいかもしれないが…普通の黒い縦縞ソックスを履いている時点でアウトだ。
更に眉を顰めざるおえないのは上半身にも及ぶ。
お気に入りで揃えたいのは分かるが、これまたジーンズといい勝負のぴちっとしたサイズになってしまったティーシャツだ。正面の幾何学模様がさらに訳の分からない模様へと変化してしまっている。まだまともな選択をしたかに思えたパーカーは、つい最近購入したもので体にぴったりとしたサイズではないが…いかんせん色の組み合わせが悪い。濃いブルー地のジーンズに緑のティーシャツ、その上からこれまたアーミーグリーンのパーカー。秋や冬ならまだしも、春にこの色の取り合わせは暑苦しいにもほどがある。

−姿見の活用方法も間違ってるよ…

『姿見』とは『姿』を見るものであって『個々』を見るものではない。つまり全体のバランスを見ていないニールは何を選んでも全体に見ればおかしな具合になってしまうだろう。ライルは大きなため息を吐き出し寝癖の付いた頭を片手でかき回した。

−デートって雰囲気じゃないにしてもだ…

正直に言おう。この姿で出かけられたくない。
ライルは頭の中でそう呟くと今通り掛かりましたという風を装うでもなく何気ないように近づいていく。

「お。珍しい。もう起きたのか?」
「んー…目が覚めてね…」
「ふぅん?」

首だけで振り向いたニールの横まで来ると椅子に掛かった服の中から一枚取り出してずいっと押し付ける。その手をぱちくりと瞬きしているニールに向かってライルは欠伸を噛み殺しながら、さも面倒だといった風に告げる。

「そのパーカー着たいんならティーシャツはこっちのがいいよ。」
「…そうか?」
「ん。で、そのジーンズ履いて行きたいならショートブーツをお勧めする。」

受け取ったティーシャツを広げるニールに背を向ける。重たい足取りになりながら階段に向かいつつもう一つ助言を残していった。リビングへ下りてくれば大きめの鞄に楽譜を詰めているエイミーの姿がある。その横へ近づいていくとくるっとした瞳が振り返った。

「おはよう、ライ兄。」
「ん、おはよう。…なぁ?」
「なぁに?」
「兄さんっていつもあんな服着てたのか?」
「服?」

カーペットに座り込んだエイミーと視線を合わせるようにしゃがみこんだライルの質問に、彼女はことんと首を傾げる。

「俺としてはめちゃくちゃダサいと思うんだが…」
「んーと…個性的ではあるかな。」
「あれを個性で片付けるか…」

妹の感性も心配になり始めたライルはちらりと柱時計を見上げて首を傾げる。記憶が確かならエイミーのピアノ教室は午後からのはずだ。

「…時間早過ぎないか?」
「ん。今日はね、先生と一緒にお昼食べるの。」
「招待されたのか?」
「うん!いっぱいお話するの!」
「そっか、良かったな。」

ほくほくと笑みを浮かべるエイミーの頭を撫でてやると彼女は更に擽ったそうな笑みを浮かべた。

「ピアノの先生って女の人?」

テーブルに用意された朝食を食べようと椅子に座るとエイミーもまだ残っていたココアを飲む為に横へと座った。ピーナッツバターに手を伸ばしながら随分と嬉しそうなエイミーに聞けば、彼女は足をぱたぱたと揺らしながら答えてくれる。

「うん。先月トウキョウに来たって言ってた。先生ね、エイミー達と一緒なの。」
「うん?」
「違うお国から来たって。」
「へぇ。」
「お兄ちゃんもいてね、とっても格好いいの!」
「…おにいちゃん?」

もとよりおしゃべり大好きな妹の話に耳を傾けていると気になる単語が出てきた。ニールほどではないが、ライルにとってもたった一人の妹は大事な存在だ。その彼女から男の話題が出てくるとは思わなかった。ぐるりと顔を向けるとその変化に気付かないエイミーは両手でマグカップを傾けて話を続けてくれる。

「あまり会えないんだけどね、いつも美味しいお菓子を用意してくれてるの。」
「…用意してくれてる?」
「先生、お料理下手だからお兄ちゃんが作ってるんだよ。」
「へ…へぇ…」

ピアノの先生をしているというからてっきり料理も裁縫も得意な女性だと思っていればどうやら違ったらしい。意外な一面を教えてもらって気まずい気持ちになってしまった。

「主夫ってやつかな?…上手いのか?」
「うん?先週に持って帰ったケーキ、ライ兄も食べたでしょ?」
「え!あのケーキ手作りだったのか?!」

先週の土曜日、ピアノ教室から帰ってきたエイミーは紙袋を一つ持っていた。何かと聞けばピアノの先生がくれたのだと言う。
中は黒い生地の上に雪のような粉砂糖が乗ったガトーショコラだった。甘いものが嫌いというわけではないが、チョコレートがふんだんに使われたそのケーキは進んで食べようと思わない部類で…ほぼワンホールに近いその形はしっかり家族分もらってあり、食べないのは失礼だから一切れの半分でいいから食べるように、と宛がわれてしまった。内心しぶしぶではあったが一口運んでみるとそれは、チョコの中にオレンジの風味が混ざりしっとりとした歯触りの中に全く違う食感の胡桃も混ざっていた。普通のガトーショコラと違いさっぱりとしてぺろりと平らげてしまった。
次の日、母がエイミーを連れて直にお礼を告げに訪ねていたのを覚えている。きっと今日のお昼への招待もその日にしたのだろうが…

「…てっきりどこかのケーキ屋で買ったのかと思った。」
「でしょー?でもパティシエにはならないんだって。勿体無いなぁ…」


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