〜こんな続き〜


 虎徹の頭の中が真っ白になった。

「………」

 掴み取ったタオルが重力に従って……へろり……と垂れさがる。今の今まで目の前を仕切っていた扉は全開に開かれ、もうもうと立ち込めていた湯気を掻き回し、そこに立つ青年の顔を覗かせている。ほんの少しだけ曇ったガラスの向こう側に見える碧眼は、まっすぐにこちらを見つめていた。

「……………」

 一方。青年、ことバーナビーの頭の中も真っ白だった。
 更衣室で見つけた血痕からもしや怪我をしていたのではないかと思うといてもたってもいられず。シャワールームに駆けこんだのだが、目の前の人物に全思考回路が停止してしまった。
 まん丸に見開かれた琥珀の瞳。濡れた黒髪。僅かに開かれた唇。見覚えのあるそれらは間違いなくバーナビーの中にある『鏑木・T・虎徹』と一致している。

 ……けれど……

 顎にある変わった形のタトゥーはなく、首から下が滑らかな曲線を描き、何よりも……目をくぎ付けにするのは……

 丸い……丸い二つの、盛り上がり……

 どう見ても男にはないその膨らみに視線は吸い寄せられたまま動けなかった。

「「……………ッ」」

 そのまま固まること数秒。

「「ッぅわぁぁぁぁぁぁーッ!!!!!」」

 わんわんと響く絶叫は二人の沈黙を綺麗に吹き飛ばしてしまった。

「ッ 見 る な ー ッ !!!」

 新たな雄叫びと共に振り回された手には湯気によって湿ったハンドタオル。それを視界の端に捕らえられてはいるのだが、真っ赤に頬を染め、涙目になりながら睨み上げてくる虎徹の顔に意識を奪われてしまったバーナビーは避ける事を完全に忘れていた。
 真っ直ぐに反らされない碧眼が虎徹のパニックを頂点まで極めさせ、ハンドレットパワーをも発動させてしまう。

「ッ!!!!!」

 柔らかいはずのタオルが唸り声を上げながらバーナビーの横っ面へとめり込んだ。

「……………あ…ばっ、バニーちゃん!?」

 シャワールームに響く小気味良い音で虎徹は我に返った。慌てて顔を上げればぐらりと傾いていくバーナビーの体がある。仕切り戸に掛かっていた手が倒れ行く体の軌道を描き、咄嗟に伸ばした虎徹の手を擦り抜けて落ちて行った。

「〜〜〜!」

 どしゃっ……と鈍い音を立てて倒れたバーナビーの姿に全身から血の気が引いて行った。

*****

「……………?」

 ふと目を開くと目の前が真っ白だった。何の形も影も写らなくて手を伸ばして確認しようとするも、自分の手も見えない。何度か瞬いて首を傾げると、頭の下に何か敷いている感覚があった。

「お?気付いたか?」
「……え?」

 声が聞こえてきた。反応を返すように声がした方向へと頭を傾けると目の前の『白』が急に取り除かれる。

「うん、目、開いてるな。斎藤さーん、バニーちゃん気がつきましたよ〜」

 ぼやける視界の中で黒と緑で形成される人の形に目を眇めれば、見慣れた男の姿だった。見えにくい、と眼鏡を押し上げる素振りをすれば、何も当たらない事にきづく。

「うん?あぁ、眼鏡はこっち。ほい。」
「……あ……はい……」

 バーナビーの動作に差し出される眼鏡を視界に捕らえて装着した。途端にクリアになる視界に虎徹と近付いてくる斎藤の姿が見える。

「<大丈夫かい?>」
「……ぼく……は?」
「<更衣室で倒れたんだって>」
「……倒れた?」
「そ。もう寿命が縮まるかと思ったよ」

 覗きこんでくる二人の顔を見ながらバーナビーは首を傾げた。

「シャワーから出てきたらバニーちゃんが床でぶっ倒れてるからさぁ……頭打ってたらヤバイし」
「……はぁ……」
「良かったな?おじさんがいるとこで倒れてて」
「<良かったっていうのは違うと思うよ?>」
「そう?」
「……え、と……」
「<身体検査もしたけど、どこも異常はないから>」
「そう……ですか……」

 少し痛む頭を抱えつつ起き上がると、そこが医務室である事に気がついた。おそらく虎徹が運んだのだろう。
 そこまで考えて、はた、と目を瞠る。ちらり、と視線を動かすとベッドのすぐ横に椅子を引き寄せて座っている虎徹。笑みを浮かべるその顔をじっと睨みつけた。

「うん?何だ?まだ気分が悪いなら寝転べよ?」
「……大丈夫です。」
「そう?立てそうにないなら家まで送るけど」
「……結構です。」
「あら、そう。」

 いつもの軽口に淡々と答えながら回り始めた思考をフル回転させる。じわじわと湧き上がる違和感の正体を掴もうとしているのだが、まるで雲のように掴めず、焦れてきた。
 飄々とした顔。琥珀の瞳。つんつんと跳ねる黒髪。顎には独特の形をした変わったタトゥー。何も可笑しいところはないはずだ。
 顔を見つめていたが、徐々に視線の高さを下ろしていく。きっちりと閉じられたシャツに黒いネクタイ。V字に開くベスト。そこまできた視線が下りるのをやめる。

「……バニー?」
「………」
「おーい、バニーちゃ〜ん?」

 虎徹の呼びかけを無視して両手を挙げたバーナビーは徐にベストの胸元を鷲掴んだ。

「ぉひょあッ!?」
「………」

 べったりと当てた手のひらに返ってくるのは張り詰めた肉の感触。鍛えられた筋と滑らかで平らな肉体。想像していた感触とは違う手触りに眉間へくっきりと皺を刻んだ。

「え?なになに?バニーちゃんてば、おじさんの胸が恋しいとか言っちゃう?」
「……黙ってください。」
「……あい。」

 ぴしゃりと切り捨てられる言葉に、虎徹は中途半端に浮かせた両手をそのままに黙り込んだ。その間にも、バーナビーは何かを確かめるように手を這わせる。二人の異様な光景に斎藤も何も言葉を挟めずにいた。

「あの……バニーちゃん?」
「うるさいです。」
「や、うん……それは重々承知してるんだけどさ……」
「……何ですか?」
「マッサージしてくれるんだったら腰がいいなぁ……とか思ってみたり。」
「は?僕がマッサージなんかするわけないでしょう?」
「だったら……コレは何?」
「コレは……………」

 ごちゃごちゃと五月蠅い虎徹の顔を睨みつけていたのだが、ホールドアップ状態の片手がつい、と指さす先に視線を動かしていくと、ビシリ、と固まってしまった。そのままの状態で広がる微妙な沈黙。

「……………」
「……………」
「<……………>」
「……………」
「……………」
「<……………>」
「何でもありません。」
「何でもないのに男の胸揉みあげるんかい、バニーちゃんは」

 虎徹の突っ込みを鮮やかにスルーしてみせたバーナビーは、ささっと手を離して姿勢を正すと顔を隠す様に眼鏡のブリッジを押し上げた。挙動不審な事この上ない。

「<本当に何もないのか?>」
「えぇ。御心配をおかけしました」
「おい、もう立って大丈夫か?」
「それほど柔じゃありませんので。」
「そう?」
「それでは、失礼します」
「気ぃつけてなぁ〜?」
「余計なお世話です」

 本人の言う通り危なげなく歩き出した彼は、部屋から出るとまっすぐエレベーターへ向かいあっさりと乗ってしまった。医務室の扉から顔だけ出して見送った虎徹は、頭を部屋の中に戻すとへたり、とその場で座り込んでしまう。

「……切り抜けた……」
「<御苦労さま。>」
「や、それはこっちのセリフです……まさかこんなすぐに出来上がるとは思ってもみなかったし……」

 そう言ってちらりと見下ろしたのは自分の胸。真っ平らではあるが、単なる板の状態ではなく、僅かに出来る筋肉の起伏まで再現されている。さっきのように触っても『男の胸板』らしい感触しか相手には伝わらないだろう。

「<まぁ……試作品なんだけどね。
 あれだけ触られても分からないなら本格使用にしてもいいかな>」
「試作って……」
「<ファイヤーエンブレムから忠告を受けたんだ。ただ潰すんじゃダメだ、とね>」
「……ネイサンが……」
「<女の体型は崩れやすいからちゃんとキープ出来るように配慮をしろとも>」
「……あぁ……それでカップがついてるわけね」

 ついさっきまで使っていたものは、とにかく平らになればいい、という代物で単に押し潰しているだけだった。けれど、新たに渡された『試作品』は少し厚くはなったが、立体的に作られ内側に胸を覆うカップが付けられているし、盛り上がりを無理なく平らにして見せている。その為か、呼吸もかなり楽だ。

「……でも……なんで表に筋肉の起伏まで作ったんですか?」
「<それはね、男の胸板を単なる板で表現するのは邪道だって言われてね
 触って楽しめる感触にしろ。だそうだ>」
「……完全なる奴の好みだな。それでも斎藤さんは作っちゃうわけね?」
「<そんな無理難題を突き付けられて開発者たるもの、出来ないでは済ませられないだろう?
 何よりも君は、他のヒーローよりも多くのリスクを背負っているのだから。
 少しでもリスクを軽減させるのが私の役目だよ>」
「……感謝してますよ」
「<さ、いつまでも床に座ってないで。腰を冷やしてしまうよ?>」
「はいは〜い」

 開発者としてのプライドと、当事者に配慮してもらっていることに虎徹は心から感謝する。差し出される小さく丸い手に笑みを浮かべて己の手を重ねた。



 一方、静かに下りていくエレベーターの中。バーナビーは己の手を見つめていた。広げた両手。そこに残る感触と、頭の片隅に浮かぶ残像を照らし合わせてみるが、一向に合致しそうにない。重くため息を吐き出してガラスの向こう側を眺める。

「……白昼夢……ってことでいいのかな……」

 ここの所、今までの生活が大きく変化したせいもあって疲れが溜まっていたのかもしれない。そう考えれば倒れただの、記憶が曖昧だのという出来事は納得出来るだろう。  それでも、どこか釈然としない胸の内を無視して強く瞳を閉じた。

*****

 次の日。虎徹とバーナビーは朝から別行動だった。というのも、バーナビーの単独インタビューや雑誌の撮影が固まってしまったからだ。本来ならばバディである以上、虎徹の方に何も仕事がなくても一緒に行動するべきではあるのだが、斎藤からベストの新調依頼があった為に別行動を余儀なくされたのだ。
 思わずほっとしてしまう自分に苦笑しながらも研究室を後にする。

「お、ネイサ〜ン!」
「あら?」
「愛してるぜぇ〜!」
「ヴシーッ!!」

 ものの一時間程度で新調が済んだ虎徹はジムに来てすぐに着替えを済ませるとフロアを見まわした。すでに何人かメンバーが来ており、各々トレーニングに励んでいる中、アントニオのお尻にちょっかいを出しているネイサンを見つけると虎徹は一目散に愛の告白付のハグをお見舞いする。そんなとんでもない虎徹にアントニオは飲んでいたミネラルウォーターを盛大に噴き出してしまった。

「あらやだ。困ったわね。こんな明るい内から熱烈な愛の告白をされるなんて」
「げほげほげほげほげほッ!!」

 真正面からぎゅーっと抱きつく虎徹の背にちゃっかり両腕を回しつつ、肩口に当たる頭を頬擦りしながら欠片も『困った』雰囲気はなく。むしろ喜んでいるようにしか見えない。そんな二人のラブラブっぷりを見せつけられている周囲は、咽せかえるアントニオに限らず唖然としていた。

「こっ……こて、つっ……おまッ……朝から何言って……っ!」
「ほんとっ……おじさんのくせにやめてよねっ!ドン引きにも程があるわっ!」
「うっせーうっせー!今の俺はネイサンにメロメロなんだよっ!」
「きききききき気は確かかっ虎徹ッ!?」

 つーん、と口を尖らせながら言ってのける虎徹にアントニオはうろたえ続ける。ブルーローズ、こと、カリーナに至っては眉間にこれでもか、というほど深い皺を刻みつけてさげずむ様な眼差しを向けていた。
 一方、抱きつかれているネイサンはというと、ふとあることに気付いた。

「……タイガーちゃん」
「うん?」
「あっちでお姉さんとお話しましょうか?」
「ちょぉおおおいっ!ネイサン!?」
「おぅ!もちろんだ!」
「こ、こてっ、虎徹ぅっ!!」

 仲良く肩を組んで歩いていく二人の背に、アントニオの悲鳴に近い声は綺麗に無視されてしまった。


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