しばらく歩き続けて到着したのは一棟のビルの前だった。とっくに就業時間は過ぎているので真っ暗ではあるが、ワンフロアだけ仄かに明るい。正面玄関らしき扉はきっちり締められているのは分かるし、何よりもチェーンが提げられている。
 けれど青年は気にする事なくビルを回り込むと裏口から中へと入っていった。

「ベンさん。ただいま戻りました。」

 階数を数えて辿りついたのは仄かに明るいフロアだった。机が一列に並び、これでもか…というほどに積み上げられた紙の山が少しの振動で倒れそうなほどに傾いている。それらを興味深く見まわしていると、灯りの点いたデスクの辺りから色黒の男が顔を出した。高い紙の山から覗いた表情は少々面食らっているように見える。

「随分遅かったのは……拾い者をしていたからか?」
「えぇ、先日部長に話していた猫です」
「……猫??」
「へぇ、これまた。随分可愛いじゃないか」
「……へ??」

 じっと向けられる視線の先が自分であることにようやく気がついた。確認のように自分を指差して首を傾げるとベンがこっくりと頷いて返す。

「上層部を納得させる事は至難の業だと思うがな。」
「だからこそやる気が出るってもんでしょう!」
「???」

 なんだか冷静そうに見えた青年が鼻息荒く、熱くなってきている。なんたってガッツポーズまでし始めているのだ。

「だいたいヒーローがムサイ男ばっかとか萎えるじゃないですか!
 どうしてみんなは何も言わないんでしょうね!?
 女性のヒーローがいたっていいじゃないですか!
 いいや、むしろいるべきだ!必死に戦う女の子萌!萌ーッ!!」
「………えと……」
「あぁ、気にしないでくれ。いつものことだ」
「……はぁ……」

 頭のネジが吹っ飛んだかと心配してみればいつもの光景だということで流しておいていいらしい。

「この会社はさ、出版社でな」
「あ……はい……」
「確かな情報を提供してるっていう点では大いに信頼のある会社ではあるんだが、何せ華がない」
「……はな……」
「そこでヒーローを雇おうか、って話が出てな」
「現在フリーのヒーローはいないし、すでにスポンサーの付いているヒーローを雇うには資金面が苦しい。そこで君の登場です」
「……え?」
「俺達2人でヒーロー部門の立ち上げをしたいんだが、肝心のヒーローが捕まらなかった。が、こいつが君を見つけてきた」
「……え、えと……?」
「わが社のヒーローになりませんか?」

 頭の中が真っ白になった。
 ついさきほど騙されたところという事もありかなり混乱している。信じていいのだろうか?また裏切られたりしないだろうか?

「……見返り……とかは……?」
「見返り??会社のロゴを使って宣伝してもらうのに?」
「……あ……」

 おずおずと聞いてみると至極不思議そうな顔をされてしまった。本来ヒーローとスポンサーの間に生じる契約は彼の言った事だけのはずだ。ヒーローが会社のロゴを背負って人目に触れるように立ち回り犯人を確保。体を張った宣伝に対して会社は報酬を支払う。それだけのはずだったのだが、ヒーローとしての役割よりも体のみを求められ続けていたのですっかり忘れてしまっていた。

「随分……酷い人事部ばかりに当たってたようだな」

 苦笑を浮かべた彼に思わず俯いてしまう。

「女性のヒーロー志望なんて、珍しいことこの上ないですからね。」
「うちの会社はそんなもん求めちゃいないから、安心しな?」

 こくこくと頷きながら涙が出そうになるのを必死で耐える。ようやく真っ当な会社に巡り合えたことに胸がいっぱいだった。

「……とはいえ、世間はまだ受け入れてくれないだろうな。」
「そこは当初の予定通り、『みにくいあひるの子』計画で。」

 渋い顔をするベンにしれっとした調子で答えた青年の言葉に首を捻ることになる。

「……なんだ?それ??」
「世間が動くまで『男としてヒーロー』をするんです」
「俺はもう少し時期が来るまで待ってもいいと思うがな。本当にそれをさせるつもりか?」
「えぇ、彼女の実力を認めさせてからでも遅くはないし。最初から心ないレッテルを貼られると払拭に時間がかかりますし、何より動いてもらいにくくなります。上もリスクを未然に防ぐ為だ、と言えば納得するでしょう」

 青年の言う事はかなり説得力があると思う。まだヒーローとして働いていないから実力を認めさせる云々はどうなるか分からないが、それでも諦めかけていたヒーローになれるというのならば多少の困難を受諾するのも苦にはならない。

「そりゃそうだろうけど……お前さんはいいのか?」
「え?何が?」
「男のヒーローになる事だよ。」
「はい。何か問題でも?」
「………」
「………え?」
「いや……お前さんがいいならいいよ。」

 僅かに開いた沈黙に首を傾げた。すると青年は満足そうに頷き、ベンは頭痛に耐えるように眉間を指で押さえる。真逆な反応にますます首を傾げてしまった。
 当の心配されている張本人といえば、念願のヒーローになれる、という事で頭がいっぱいらしい。そう判断したベンは白紙の用紙を引きずり出した。

「それじゃ、ま。お偉方を納得させる企画書の製作と参りますか」
「了解」

 再びデスクに付いたベンに倣って青年がすぐ隣のデスクへと移動する。そこでようやく指を握ったままだった事に気づいて慌てて解いた。

「……握ったままでも良かったのに」
「よかねぇだろ」
「ん?なんだ?手懐けたわけじゃなかったのか」
「んー……これからじっくり攻略するところですかね」
「人のことゲームみたいに言うんじゃない」

 むすっとした表情で見上げれば、笑みを深めるだけで何も言ってはこなかった。近くの開いたデスクから椅子を引き寄せて座るように勧められるから大人しく腰を落ち着ける。

「さて。まず名前からだな。」
「鏑木……徹子」
「……あれ?」

 本当ならば書類選考とかがあるはずだが、さきほどからの話でいくと違う事は分かる。とはいえ、持ち物は全部置き去りにしてきたのだから、書き貯めていた履歴書も身分証明も何一つ持ってはいない。だから手始めに、と名前を聞かれるのは当然なのだが……
 答えたのは青年だった。

「字、間違ってます?」
「え?いや……合ってる、けど……」

 さらさらと書き込まれる字も一字一句間違えてはいない。名乗った覚えはないのに、と不思議に思っていると、青年は訝しげな表情で見つめてきた。

「……もしかして僕の事、気づいてないんですか?」
「へ?」
「……うわぁ……本当にぃ〜?」

 きょとりと瞬くと彼はショックだ、と言わんばかりに背もたれへと仰け反ってしまった。

「てっきり分かってて付いてきてくれたと思ってたのに……」
「え?何のこと??」
「あのねぇ……知らない人に付いていっちゃダメって言われませんでした?」
「んなっ!?悪かったな!ほいほいついて行くようなガキで!」
「あー……はいはい。夜のオフィスで大騒ぎしない」
「……う〜……」

 思わず吼えれば、どうどう、と言わんばかりに宥められてしまう。その仕種すらも癇癪を起した子供に対するもののように見えて癪に障った。低く唸って睨みつけるとハンチングを脱いで眼鏡を外す。

「社会人らしくインテリな伊達眼鏡をしたくらいしか変わってないと思うけど?」

 少し拗ねたような声でこちらを振り向く青年に頭の中に存在していた幾人もの顔からカチリと一致するものが浮上してくる。

「!トモ!?」

 にっこりとした笑みを浮かべる青年の顔は学生時代に仲の良かった男友達。巴に似ている。というか……彼だ。
 本当に……彼の言う通りどうして気付かなかったのだろう?と徹子はショックを受けた。

「え……えぇ???!」
「えぇ?はこっちのセリフです。やけに警戒してるなぁ……とは思ってたけど……まさか全然気付いてなかったなんて……」
「わ、わりぃ……」

 けれど、相手がよく知っている人物であったこともあってようやく自分の警戒心が薄れていることに納得がいった。
 巴は『女の能力持ち』という事でイヤガラセを言ってくる男子生徒とは違い、能力があってもなくても『徹子は徹子』と言ってくれた人物だったからだ。学生の時よく絡んでいたアントニオ・ロペスと共によく喧嘩してた事を怒られ、テスト前になると二人まとめて勉強会という名のスパルタ教育を施してくれて、卒業後はしばらく連絡を取り合っていたが、アントニオが就職先を決め、巴も就職をしたという連絡を貰ってからは自ら疎遠になっていた。
 しかしまさか……こんな形で再会するとは思ってもみなかった。

「思い出してくれたんならいいです。」
「……ん。」
「……なんだ、知り合いだったのか?」
「えぇ、同級生だったんです」
「なるほどな。それでよく知ってるわけだ」

 ベンは笑いながら更に書き込まれていく個人情報に笑みを浮かべる。粗方書いたところで巴は徹子へと向き直った。紙面を差し出してきた辺りから察するに確認しろ、ということらしい。

「間違いがあったら訂正してくださいね」
「お、おぅ。」
「さて、これから忙しくなるぞ」
「望むところですよ」

 紙に落とし込んでいた視線をちらりと上げると二人は肩を寄せ合ってがりがりと企画書らしきものに文字をびっしり書き込んでいる。よほど嬉しいのか、二人の横顔はイキイキとしていた。

 * * * * *

「少し窮屈な思いをさせてしまうけど……我慢してね?」
「ん?あぁ、気にするな。自分の借りてるアパートよか全然いい」

 巴とベンが書き上げた企画書を見せてもらったとき、正直いうと……

 ……正気か?あんたら……

 ……と突っ込みを入れたい気分だった。
 というのも、大まかに言えば世間が女性のヒーローを受け入れてくれる時期が来るまで徹子は女であることを社員にも隠して男としてヒーロー活動をするというものだ。
 時期、というのも、徹子自身が功績を挙げてヒーローとして認めてもらった後にタイミングを見計らって女だったとカミングアウトする、といった具合。

 会社側としては単に専属のヒーローが欲しいだけであって、世間云々は関係ない。しかし、世間体のリスクを負ってまで歴史上初の女ヒーローになるかもしれない徹子を受け入れてもらう為には性別を偽ってでも功績を挙げることが最優先になった。
 性別を偽る時点で詐称書類を作ることになるのだが、それにはまず徹子の名前を改名して新たな人物を作ることで誤魔化してしまう。徹子自身がヘマをしなければ外部にはばれないだろうし、会社側としては『騙された』として責任は全てヒーロー部門の人間にしか掛からないように出来るだろう。

 何より、巴の熱い、いや……熱すぎる説得と斬新であろう女性ヒーローの誕生という点を買って上層部の人間は頷いてくれた。

「……んー……まぁ、それもあるけどね?」
「うん?」

 そんな経緯を経て、ヒーローデビューの為の準備として徹子は社宅の一室を借りた。スーツの製作や徹子自身の振る舞いを練習する為になるべく外に出ないようにしないといけない。
 そういった意味で『窮屈な思い』をする事を心配されたのだと思って返したのだが、苦笑を返されてしまった。どうも少し違うらしく首を傾げる。

「せっかくヒーローになれるのにこんなリスク背負わせるようになるなんて、っていう意味。」
「……あぁ。」

 巴には学生の頃から『将来はヒーローになる』のだと豪語してきた。なのに刑犯罪を犯してしまう。そのことが彼には心苦しいようだ。

「まぁ、リスクはあるけどさ。念願のヒーローやれるんだ。それだけで大満足だ」
「……欲がないね?」
「んー?そうかな?」
「そうだよ……」

 くしゃりと頭を撫でられる。その顔は笑みを浮かべているがどこか呆れているように見えた。

「……すぐにありがままのテッちゃんでヒーローを出来るようになるよ?」

 そう言って微笑みを浮かべる顔に一瞬目を瞠ってしまった。学生の頃に呼んでくれていたニックネームに頬が弛んでくる。


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