3:Daughter sings the Lullaby



 ぼんやりと瞳を開くと見覚えのある白い天井があった。
そういえば会社の医務室がこんな感じだったな…と思いだすと、テロリストを倒した後の記憶がない事に気づく。

「(………倒れたのかな?)」

 まだ靄のかかったような意識の中、何度か瞬いていると頬をそっと擽る感触がある。

「……?…」

 ゆるりと頭を動かせばベッドらしいシーツの向う側に心配そうな顔をした少女が見えた。彼女は少しでも楽になって欲しいと思ったのだろう、いつも抱えているテディベアの手を持って虎徹の頬を撫でている。ふわふわと触れる柔らかいぬいぐるみの手に自然と笑みが広がった。

「…しんぱい…かけたな…」

 だるく動きにくい手を持ち上げて指先で頬を撫でると、擽ったそうに肩を竦めてその小さな手が包み込んできた。きゅっと握られる手に緩やかな吐息が漏れる。

「(…何か…見てた気がする……夢?)」

 抱き込まれるような手に脳がぼんやりと時を遡り始めた。まず思い出したのはテロリストのロボットを一体倒した川辺…珍しく他には何も壊さずに済んだので始末書はなさそうだ。
 その次に思い浮かんだのは…黄色い看板…

「ッ!!!」

 一瞬にしてフラッシュバックした映像に喉の奥が焼けるような感覚に陥った。込み上げる嘔吐感を口に手を当てて押し込みやり過ごそうとすると、頭を撫でる感触がある。にじみ出た涙で歪む視界に少女の姿が写った。自分とは正反対な淡い茶髪の髪はどちらかといえばカリーナの髪の色に近い。けれど真っ直ぐに落ちる髪質は愛娘に似ているだろう…
 だからなのか…
 年齢も見た目も違うのに…たった一人の愛しい娘、楓と重なって見える。
 楓も小さい頃…虎徹が熱を出してうずくまっているとこうして苦しいのが和らぐように…と撫で摩ってくれていた。
 そんな記憶を思い出して目頭が熱くなった。

「…?…」
「…おいで?」

 うっすらと笑みを浮かべた虎徹に少女が首を傾げる。少し体をずらしてベッドをぽふぽふと叩くと迷ったような表情を浮かべておずおずと上ってきた。

「…一緒に…寝てくれる?」
「………」
「おじさん…一人だと…寂しいんだ…」

 へなり…と眉を下げてお願いしてみると、小さく頷いてくれた。その上近くにいる、と体で表現するように胸の上へと乗り上げてくる。その小さい体に両腕を回すと、虎徹は静かに瞼を閉じていった。

「………」
「………」

 穏やかに繰り返される呼吸…頬にも血の気が戻ってきたのか、ほんのりと紅く染まっている様子に少女は…ほっ…と安堵する。広い胸元に頬を寄せて、体に回された腕の重さにうっとりと瞳を細めた。

「……ぱ…ぱ……」

 瞳を閉じながら囁かれた言葉は誰にも届かずに穏やかな呼吸と混じって消えてしまう…



「おじさん?」

 しん…と静まり返った部屋にバーナビーが入ってきた。医務室のベッドに昏々と眠りに付く姿を見つけて小さく息を吐き出す。

「まだ眠ってるんですか…」

 ベッド脇まで行くと顔を覗きこむ。瞳を閉じた顔は実年齢よりもぐっと幼く見えた。運び込んだ時に比べて頬に血色が戻ってきていることにまずは安心する。吐き出す呼気にも苦しげな様子はない。汗がにじんだ額に張り付く前髪を掻き上げてやると、切なげに寄せられた眉も穏やかな弧を描いていた。

「……あ…」

 とりあえずは意識が戻るまではそっとしてやるか…と部屋から出て行こうとした時、彼の腕がテディベアを抱えていることに気付いた。

「…どこまで寂しがり屋なんですか…あなたは…」

 いい年した大人がぬいぐるみを抱えて眠っているなんて…
ヒーローを夢見る子供が見たら幻滅しそうだ。
…それでも…

「ぬいぐるみを抱えて眠る姿が似合うなんて変わったおじさんですね?」

 そう呟くとバーナビーはテディベアを抱き締める腕をそっと撫でた。

 * * * * *

「よ!調子はどうだ?」
「…うん…今日はいいみたい…」
「今日も、だろ?」
「ん…そうね…」

 柔らかな白い部屋の中…ベッドに横たわった彼女は虎徹の姿を見て微笑んだ。その口元を覆い被せるような半透明なパーツと体を機械を繋ぐチューブに当たらないよう、細心の注意を払いながらほんのりと赤い頬を撫でる。

「…楓は?」
「お花プレゼントするっていって下で選び中。」
「…そう…」

 虎徹の横にいるはずの小さな姿が見えなくて首を傾げる彼女の顔の傍に腕を付いて座り込んだ。視線の近くなった顔に笑みを向けるとおっとりと笑う顔をただただ見つめる。

「…ね…」
「うん?」
「明日…手術…ですって…」
「え?」
「…臓器が…見つかったの…」
「…ホントに?」
「…ん……」

 嬉しそうに声を上げると自分の悦びが彼女に伝わったのか、笑みを深めてくれる。けれどそれも一瞬で陰りを帯びてしまった。その変化に彼女が抱える不安を読み取る。

「………大丈夫だよ…」
「…え?…」
「悪いトコを取っ換えてもらったら…すぐに元気になって…俺と…楓と…一緒に暮らせるよ」
「……うん…」

 嬉しそうに微笑む顔を見ていると…胸が…つきり…と痛みを訴える。すると目の前の景色が真っ白な霧の中に埋もれていった。



「(…臓器?)」

 大きな違和感とともに虎徹は目覚めた。
夢…というのは思い出を忠実に再現出来る物ではないらしい…
なぜなら『彼女』は…臓器を移植して治るような病ではなかったからだ。
それでも…久しぶりに見た最愛の女性の夢に頬が弛む。
 もぞり…と動く気配に視線を下げると体の上に横たわる少女がこちらを見つめていた。

「…おはよ」
「……」

 寝起きの掠れた声で囁くと笑顔を返してくれる。喋れない事にも慣れたのでその笑顔が『おはよう』と返してくれたのだと勝手に解釈しておいた。そこでふと思い出す…

「…今更だけど…名前…知らないよな…」

 会った時はすぐに帰してやる気でいたから不自由に思わなかったのだが…一日経つと少々不便に思えてきた。いつまでも呼びかけで話しかけるのもどうかと思う。
 字は書けるのかな?…と紙とペンを探すべく体を起こすと胸元を叩かれる。

「うん?」
「………」
「ん?んん??」

 どうかしたのか、と見下ろすとテディベアを差し出してくる。首を傾げつつも手に取ると首元のリボンを指し示してきた。大きなリボンに結ばれたところに指を這わせると金属のプレートが埋もれていることに気付く。
 リボンを掻き分けてプレートを取り出すと刻印が刻まれていた。

「えー…あ…る…ちぇ…じゃないな…えーと…あー…ちぇ…」
「!」

 アルファベットの綴りを拙い口調で呼んでいると、ぱぁっと顔が輝く。…どうやら正解らしい。

「…アーチェ?」
「!」
「そっか…アーチェっていうのか」

 確認を取るように呼びかければすごく嬉しそうな笑顔になった。素直な反応に虎徹の頬も緩みっぱなしだ。気の済むまで頭を撫でていたのだが…ちらりと壁の時計を確認すると、出動した時刻から4時間は軽く経過している。

「…もう着替えても大丈夫だよな」

 独り言のようにぽつりと呟くとアイマスクを外した。アンダースーツを脱ごうと手を掛けて一瞬止まる。

「………」
「………?」

 ぱちりと瞬いて首を傾げるアーチェに苦笑を漏らした。このくらいの年頃の女の子ならそろそろ父親の裸に恥じらいを覚えるだろうに…

「おじさんのお着替えなんて見ちゃダメよ」

 茶化した声で小さな顔に自分のマスクを宛がって膝の上から下ろしてやった。合わないアイマスクで視界が塞がれてしまったアーチェは驚いたらしく、きょろきょろと頭をあちらに向け、こちらに向けとしている。その頭を優しく撫でてやるとベッドから降りた。

「シャワー浴びて着替えるだけだから。ちょっとだけ待っててくれ」
「………」

 見えないながらも小さく頷いてくれたアーチェの頭をもう一度撫でるとスーツを脱ぎ始めた。するとドアが小さくノックされる。

「ほーい?」
「…あぁ、ようやく起きましたか」
「あぁ、バニーちゃんか」
「気分はどうなんです?」
「おう、この通り。悪かったな、迷惑掛けて」
「構いませんよ。慣れてます」
「わぁ…そんな事言っちゃうし…」

 にっこりと微笑んでいた顔に苦笑が混じる。何はともあれ、本人の言う通り、もうなんともないようだ。表面に出さないようにほっと安堵の息を吐き出したバーナビーは近くのロッカーにもたれかかった。目の前では虎徹がまだ起き出したところのせいなのか、動かしにくそうな手でスーツと格闘している。
 斎藤とも話していたのだが、体の不調は見られない。何か精神的に衝撃を受けたとしか考えられない…とも言っていた彼の言葉にバーナビーは考えさせられていた。
 あの…図太い虎徹が精神的ショックを受けること…まず思い浮かぶのは彼の娘…だが…もちろん今日は会っていないし、変化があった直前まではいつもと全く変わりなく過ごしていた。

 ますます分からない…サングラスのレンズを押し上げながら眉間の皺を隠していると、柱の影から顔だけ出した虎徹が呼びかけてきた。

「あ、バニーちゃん。」
「はい?」
「勝手に連れてっちゃダメだからな?」

 突然の言葉に一瞬怪訝な顔をしたが、彼の視線の動いた先がベッドの上だったことで何を対象に言っているのか理解できた。

「…しませんよ、そんな泥棒みたいなこと。」
「ドロボー?この場合、泥棒じゃなくて人攫いだろ?」

 虎徹のセリフにバーナビーは…きょとり…と瞬く。シャワールームへと入ってしまった虎徹にはその表情を見られなかったのだが…

「………人…?」

 軽く瞬いて視線を動かす。その先にいるのはベッドの端で大人しく腰掛けるアーチェ…その小さな顔に不釣合いな大きいアイマスクが乗せられていた。そこから少し視線を下げれば首に掛けられたリボンの隙間から金色の小さなプレートが見える。

「………」

 そっと指を伸ばしてプレートを捲ると『Arche』と書かれていた。

「…人攫い呼ばわりされるのは勘弁願いたいですね…」

 プレートから指を離すと両手を腰に当てて一つ大きなため息を吐き出す。

「持っていく気なんてさらさらないですけどね。」

 * * * * *

暗闇の路地に響く靴の音…それは不規則に響き…ついには重たい音を立てて途切れてしまった。地面に広がる闇に墨汁のような黒い布が広がる。それは人の腕を、肩を…背を浮かび上がらせ、人の形をしていた。微かに揺れ動く肩に白い手がぼんやりと闇の中に現れる。

「………」
「…ごめんなさい…少し急ぎ過ぎたわね…」
「………」
「えぇ、大丈夫…心配しないで…私がちゃんと支えてあげる…」
「………」
「ほら…歩けるでしょう?」

 柔らかい女性の声が響く中、地面へと蹲っていた影がすっくと立ち上がる。恐る恐る差し出した足はしっかりとした歩みで進み始めた。先ほどまでの覚束無い足取りが嘘のようだ。

「…行きましょう…」
「………」
「あの子を…早く…探さなきゃ…」

 小さく囁く声は徐々に遠のき…路地裏へと吸い込まれていった。

*****

「うーん…ないなぁ…」

 虎徹は暗闇の中歩き回った道をうろ覚えながらも辿りアーチェと行った古びたビルを探していた。真昼間の人が多い中、彼女を連れまわすのはストレスを与えてしまうだろう、と車の中に残してきている。確認を取ろうにも車まで戻らなくてはならないのだが…ビルは愚か、二階建ての建物もなく、倉庫ばかりだ。それらも全て扉が頑丈に閉じられているので中には入れそうもない。
 むしろ人の気配が皆無だ。

「こんなとこに人がいるわけないもんなぁ…もうちょっと奥かぁ?」

 車からあまり遠のくのもまずいなぁ…と思いつつも…もう少しだけ…と歩みを進めてみる。すると、薄暗いばかりの路地から急に開けた場所へと出てきた。

「!」

 明るさに少々目を晦ませながら周りを見回して…口元を手で伏せた。

「…ここに…続いてるのか…」

 そこは先日テロリストを追って交戦した川辺だ。遠目ではあるが、黄色い看板がぶら下がっているのもちゃんと見える。湧き上がる嘔吐感を抑えて虎徹は踵を返した。

「………」

 あれは白昼夢だったんだ…と無理矢理思い込もうとしているのだが…
…声が…感覚が…光景が…あまりにも生々しく、今でも背筋がぞっとする。

「……(…そういえば…)」

 体を震わせながらも記憶の端に引っかかる『赤』を思い出した。
 まだ学生の頃にちらりと見た新聞の一面…やけに鮮やかな『赤色』をした瞳の犯罪者が載っていた。白昼…人の多い表通りで一人の男性を滅多斬りにして逮捕されたのだとかいう記事だったはずだ。なんとなく、あの時見た犯人の顔と幻に見た男の顔が似ているように思う。
 ただの偶然だろうか?…首を捻りながら歩き続けていると緑のバンが見えてきた。その車に寄り添う人の姿も。

「はぁい。」
「おぅ、ネイサン…こんな場所で珍しいじゃん」

 大きなサングラスが顔を覆ってはいるが…鮮やかなピンク色を基調に纏められた服装と、物腰の柔らかいオネエ言葉が特徴であるネイサン・シーモアだ。もうすぐ日が暮れるが、時間帯としてはまだ仕事をしているんじゃないか、と思われるので首を傾げるとひょいと肩を竦めて返される。

「近くを通りかかったら見覚えのある車がとまってるからね?」
「あぁ、ね?」

 この近くはオフィス街だ。どこかの会社と交渉でもしていたのかもしれない。

「それで?タイガーちゃんは一人でドライブ?」
「一人?」

 意外な問いかけにちらりと車の助手席を見てみると空っぽだった。あれ?…と思うとシートの下から小さな手がはみ出している。退屈だったのだろう…一人かくれんぼをしているようだ。ふっと苦笑を浮かべるとネイサンに向き直って肩を竦めた。

「気分転換にちょっとね?」
「そう…ね、今晩バイソンちゃんと飲みに行く話が出てるんだけど…どう?」
「お、いぃねぇ…」

 バイソン…ことアントニオとネイサンとの飲み会は何の気兼ねもなく飲み交わす事が出来る気軽な会合だ。それに酔いつぶれてもどちらかが家までちゃんと送り届けてくれる。
………しかし…
 虎徹はふと助手席へと視線を向けた。

「…あー…やっぱパス。」
「えぇ?どうして??」
「この前倒れたとこだしな。斎藤さんにも体調管理に気をつけるようにって言われてんだ」
「あぁ…そうねぇ…だったら食事だけでもどう?」
「んー…嬉しいんだが…帰らないと。」
「うん?誰か待ち人でもいるの?」
「うん、この前可愛い小熊を拾ってな」
「小熊ぁ?」
「おぅ。滅茶苦茶可愛いぞ?」
「へ…へぇ…」

 少し茶化した話し方をすると酷く驚いた顔をされたが、にんまりとした笑みを浮かべるとようやく言葉の揶揄に気付いてくれた。ただ呆れた顔をされてしまうが…

「で、母親と逸れたらしくて探してんだけど…見つからなくてなぁ…しばらく俺んとこで居候ってわけ」
「…相変わらずお節介ねぇ…警察には行ったの?」
「いんや…どうも対人恐怖症らしくてな…人がいるってだけでびくとも動かなくなっちまうんだ」 「随分…気難しい子なのね」
「懐いてくれると素直でよく微笑んでくれて…可愛いんだがな…」

 苦笑を浮かべる虎徹にネイサンは一つ溜息を吐き出した。

「分かったわ。だったら無理強いはしない」
「ん、わりぃな…」
「それにゆっくり休んでおきなさい?ヒーローが体調不良だなんて…子供ががっかりするわよ?」
「おぅ。じゃ、またな」

 片手を振り車に乗り込んだ虎徹はエンジンをかけて軽やかに走り出した。
その緑色の車体を見送っていたネイサンはふと目に映ったものに気を取られる。

「…テディベア?」

 ハンドルを握る虎徹の横…助手席にいつの間にかテディベアが乗っている。さきほど車内を覗いた時は何もなかったのに…と首を傾げる間に車は大通りへと曲がっていってしまった。


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