ふわふわと揺れ動く感覚が頬や額を擽って夢の中から呼び覚ます。伏せたまつげがふるりと震え、覚醒を促した。けれどなかなか開く勇気が持てない。

「………」

心地よい夢を見た後の…目覚めた瞬間、襲い来る孤独と絶望に心が恐れているのだ。
けれど絶えず動き続ける柔らかな感覚と髪が動いている感覚が次第に重なってきた。風に揺られているにしては規則正しく揺れる髪に違和感が沸いてくる。そろり…と僅かな怖れを抱きつつ瞳を開くと視点が合わないほど近くに何かが写っていた。

「……?…」

ぼんやりと見つめていると髪の動きが止まる。それとともに何かが背中を押して目の前に写る物へと密着させられた。

「おはようさん。」

何度か瞬いている内に、焦点が合ってゆき白い肌と同じくらい白いタンクトップだと気づいた。見覚えのある肌色に一瞬男の顔が思い浮かんだが、鼓膜を震わせる声に掻き消されてしまう。

「…寝惚けてる?」

そろりと見上げると二色の碧が見えた。柔らかく細められてくすりと小さな笑い声が零れる。密着した体越しに振動を感じ、そっと指を伸ばして頬に触れると温かく柔らかな感触があった。

「…にーる…?」
「うん。」

ふんわりとした笑みを浮かべると、頬を触っていた手を掴み取って覆いかぶさるような体勢になった。指先に口付けられてじっとまた見つめられる。

「まだ信じられない?」

こつりとぶつかる額…唇に掛かる温かな吐息…半分色は違えど変わらぬ眼差しにそっと両手を伸ばして自分からキスを仕掛ける。

「…ん…」

ちゅっと可愛らしい音を立てて唇を啄ばまれるとすぐに離れてしまった。けれどその表情が嬉しさと恥ずかしさを孕んでいる事をニールは分かっている。少しの間そのまま見詰め合ったかと思えば、恥ずかしさが増してきたのか、すっと視線が反らされた。
いつまで経っても変わらない初心さに思わずやに下がってしまう。ただ、やに下がった顔になっても殴られなくなったのは進歩かもしれない。

「………」
「……刹那?」

撫で回したい衝動を顔中にキスすることで誤魔化していると、刹那の表情が徐々に強張っていった。その珍しい変化に思わず目を瞠ってしまう。そのまま微動だにしない刹那にどうしたものか…と迷い始めた。

「ッ!!!」
「へ?」

数秒間動きのなかった刹那が突然息を呑むと胸倉を掴み上げる。これまたきょとんとしていると体が傾いていった。

「ぃっだぁ!!!?」

自分に何が起きたのか理解できたのは地面に転がされてからだった。どうやら力いっぱい横に退けてくれたらしい。最初に衝撃を受けた左肩がとてつもなく痛かった。

「なんだよ…急に…」

目尻に涙を溜めつつぶつけた肩を摩りながら体を起こすと、刹那の背中が見える。無造作に放り出したままのパイロットスーツを必死になって広げているようだ。珍しい慌て具合に首を傾げて後ろまで移動していくと何かを見つけたらしい、肩からすとんと力が抜け落ちた。

「…何してんの?」
「!」

さっき投げられた事もあって少し拗ね気味に声を掛ける。すると大げさなほどに肩が跳ね上がるものだからますます怪しい。再びきゅっと縮こまったような後姿をじと目でしばし見つめると、更ににじり寄った。

「なぁーにしてぇーんのぉかなぁ〜?」
「ッ!!」

背中に圧し掛かるよう上体を密着させ、逃がさないように体を抱きこむ。黒髪の合間から覗く耳に唇を寄せて再度問いかけると更に身を縮めてしまった。

「せーっかく刹那を堪能してたのにいきなり投げられるし。」
「………」
「俺だってことしっかり認識してくれたと思ってたのにさー。」
「………」
「悩みに悩みまくった後にようやっと帰ってきたのに放り出されるとか。」
「………」
「俺って可哀相ー。」

つらつらと流れ出てくる文句に刹那が言葉を詰まらせる。せっかくの再開にべったり甘い空気を味わいたかったらしいニール尚も言い募りそうだ。三十路の大人が…と思うかもしれないが、当事者達は至って真剣だったりする。

「っていうかー、俺ってその程度なんだー?」
「………いや、その…」
「なぁに?」

若干一昔前の女子高生口調なのは、彼の機嫌がまだ底をついていない証拠。僅かながらに与えられている猶予に思わず安堵してしまう。
しかし、機嫌を損ねさせるとこれほど面倒な男はいないのだ、と分かったいるのにうっかりしてしまった。降り積る後悔と己への叱責の嵐の中、ぽつりと声を溢すとご機嫌大暴落といわんばかりの声で返される。

「…投げて悪かった。」
「…それだけ?」
「…う…」

たった一言の中に篭められている質問に喉を詰まらせてしまう。ニールとしてはどうして投げられたのか、その理由が知りたいのだ。しかし、刹那としては…あらゆる意味で言いたくない。誤魔化そうにも彼に対して自分が嘘を突き通せたことなど、万に一つ、億に一つ程度だろう。それにヘタに嘘をついて更に急降下させる方が恐ろしい。
刹那の選択肢は2つ…言ってしまって後で面倒くさい思いをするか…ニールの機嫌をどん底まで落としてしまうか。
だらだらと冷や汗を流す中、正直に打ち明ける方がいくらかマシだ、と腹を括る事にした。

「…失くし物を…したかと思って…」
「失くし物?」
「…ん。」

無言の圧力に屈した刹那がぽつりと答える。けれど刹那らしからぬ答えに首を傾げてしまう。あの刹那が取り乱すほどの物…一体何なのか…

「…俺を投げ飛ばしてまでも大切なもの?」
「う…あ、の…」

少々ずるい聞き方ではあるが、しっかり傷ついてしまったニールにしてはこのくらいの意地悪は許容範囲だと思われる。刹那が思ってるほども機嫌を損ねてはいないのだが、憮然とした気持ちは確かにあるので少しだけ八つ当たりをさせてもらうことにしたのだ。

「俺より大事なもの?」
「………」

とことん追い詰めると黙ってしまった。少々やりすぎたかな、と苦笑を浮かべて開放してやることにする。しかし、刹那が言葉を紡ぐ方が僅かに早かった。

「…ニールが…」
「ん?」
「…ニールが大事だから…」
「え?」
「だから…絶対になくしたくなかった…」

ちらりと上目遣いに見上げる刹那にぐっと喉が詰まってしまう。ついでにいつにない可愛げのある態度に鼻血が出そうになったのもある。そのまま見つめ合うこと数秒。その僅かな時間の間にもニールの脳内では、胸を撃ち抜かれた衝撃のままに押し倒したい欲望と刹那の体を労わらねばと踏みとどまる理性が鬩ぎ合っている。

「…これを…」

もう少しで理性が白旗を上げそうになった時、目をそらしたのは刹那だった。ぽつりと呟いて掲げられた手…何かを包み持っているらしいその手がゆっくりと開かれる。

「………それ…」

開かれた手の中にころりと小さな光の塊がある。きらきらと反射するものは、今初めて見たものではなく…

「…懐かしいな…」

細い輪を描く中心に青く碧く光る小さな石を抱いた指輪。婚約指輪だと言って刹那の左の薬指に嵌めたものだ。そっと指を伸ばして、ガラス細工にでも触る様に慎重に取り上げる。

「…まだ…持ってたんだ…」
「…ん…」

関心したようにつぶやくとこくりと頷いてくれた。似たようなもの…という選択肢は浮かばなかった。刹那がそうまでして指輪を買うとは思わないし、同じアクアマリンでも石一つ一つが美妙に色が違っている。全く同じもの…となると、何千…何万と探し回らなければならないだろう。どう考えても不可能であると共に、刹那自身が肯定してくれた。

「サイズ…合わなくなっただろ?」
「…調節してもらった…」
「え?わざわざ?」

調節してもらった…ということは、自ら指輪を店に持っていって合わせてもらったということだ。

「…だって…ひとつしかないから…」

頬を染めてぽつぽつとつぶやく刹那の横顔に、頭の中で何かが切れる音を聞いた。

「あぁぁぁ〜もぉッ!可愛いなこんちきしょおぉうッ!!!」
「うぐっ…」

木の枝に止まっていた鳥が驚いて羽ばたいてしまうほどの叫び声とともに、刹那を力の限りぎゅうぎゅうに抱き締め転げまわる。刹那の苦しげなうめき声が聞こえたが、配慮してやれる余裕がない。湧き上がる感激のままにひとしきり暴れると少々ぐったりとしてしまった刹那を優しく寝かせて閉じた瞼にキスを落とす。ゆるりと開かれる瞳は少し潤んで見えた。

「……落ち着いたか?」
「うん。一先ずは。」
「…ひとまず…」
「だぁって、こんなにも生きてる幸せを味わえるなんて…嬉しすぎて。」
「…そうか…」

素直に心のうちを告げると素気ない返事を返される。けれどその表情は決して呆れた風貌ではなく、面映ゆさを必死に耐えているようだった。そんな彼女に頬を弛めて額に唇を押し当てると、擽ったそうに身を捩る。そのまま頬や眼尻とあちらこちらに散らしていると、首に彼女の両腕が絡んできた。

「…お?」

そのままころりと転がって体勢を逆転させられる。ぱちくりと瞬いていると逆光の中、薄くほほ笑む顔が間近に見えた。5年前にはない妖艶な笑みに魅了されてしまう。じっと見つめているとちゅっと可愛らしい音をたてて顔中に口付けを降らされた。

「…ふふ…相変わらず負けず嫌い。」
「別に。…ただ…」
「んー?」
「ニールばかりずるいと思った。」
「…はいはい。」

尚も続くバードキスにくすぐったくて小さく笑いが漏れてきた。飽きることなく繰り返される口付けにそっと手を伸ばして、頬にかかる黒髪を掬いあげる。耳にかけてやると擽ったそうに身をすくめた。さらに頭を撫でてから後頭部へと手を回して、もう片方の手で顎を掬いあげるように添えると意図が伝わったのだろう。そっと瞳が閉じられて唇同士が重なり合った。


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