プトレマイオスに戻った刹那は暗いままの自室のベッドで蹲っていた。
 つい数時間前。ロックオンに自分の正体を知られた事に絶望が感情に影を落としていた。
 仇を討たせろと言われ自分の気持ちを正直に打ち明けた後、彼は『ガンダム馬鹿』だと笑ってくれた。受け入れてくれた。けれど『それ』は仲間との和解であって『今までの関係』とは別だ。
 彼が大切な家族を失った一端に間違いなく自分は関与している。
 その耐えようのない自責の念が刹那の心に、精神に深く根付いている。彼に触れられる資格も、触れる資格もない。そんな考えが胸の中で渦巻いているから…彼を見つめると胸が苦しいから…と逃げるように格納庫を出てきた。

「………」

 指一本動かすことすら億劫に感じていると来客を告げるベルの音がする。そろり…と顔を上げた。今誰かと会うのは気が引けるが篭ったままの方がいらぬ心配を掛けることは分かっている。余計な心配を掛けた先に起きる人の連鎖も分かっている。それは間違いなく一番会いたくない人物を招きよせることになるだろう。顔の表情を少しでも隠せるようにとストールを深く巻きドアのロックを解除した。

「よ!」
「………何の用だ?」

 開いた先にいたのはその会いたくない人物だった。いつもと変わらぬ調子で片手を上げて笑みを向けてくる。声が震えそうになるのを必死に耐えていつも通りの口調で言葉を吐き出した。するとドアが閉まらないようにしているのか、淵に凭れかかり腕組をして苦笑を浮かべる。

「何って…珍しく更衣室で待っててくれてないから気になったんだよ。」
「…別に…少し疲れていただけだ。」
「ふぅん?」
「……それだけか?」
「まぁな。」

 真っ直ぐに顔を見つめて言葉をつづれば肩を竦めて上体を起こしてくれた。このまま出てくれるだろうと内心ほっとする。けれどその予想は裏切られてしまった。

「で?寝るんだろ?添い寝してやるよ。」
「………」

 その言葉に刹那は一瞬言葉を詰まらせた。昨日までならその腕に甘えていたかもしれない。けれど…刹那は僅かな時間の間に決意をする。

 ロックオンの傍にいてはいけない、と。

「刹那?」
「…何故だ?」
「へ?」
「添い寝をする理由が分からない。」
「心配だからに決まってるだろ。」
「だとしても一線を逸している。」
「まぁその辺は…恋人だからな。」

 さらりと答えた言葉に刹那が眉を顰める。その表情の変化にロックオンも僅かに眉を顰めた。

「俺とあんたは『仲間』だろう?」

 はっきりと告げられた言葉に怪訝な表情になったロックオンを視線も反らさずに見つめ続ける。もしこれで少しでも瞳を揺らいだなら鋭い彼は感づいてしまう。己が何をしようとしているのかを。

「けどお前…大好きって言って…」
「教えてもらった言葉だ。」
「…教えて?」
「あんたを驚かすのに有効な言葉を教わった。だからあんたの考える感情はない。」

 出来る限り効果的であろう言葉を選び抜いてロックオンを欺いていく。それと共に、彼に教わった心を、感情を、想いを…全て欺いていくのだ。今望む、たった一つの結果を得る為に。刹那は戸惑わなかった。

「…本気で言ってるのか?」
「あんたこそ…本気にしたのか?」
「………」
「KPSAの人間の言葉を。」
「!」

 『KPSA』という言葉にロックオンの手が跳ねる。予想通りの反応に刹那は瞳を眇めた。

「あんたが横にいると温かかったからな。利用した。」
「…刹那…」
「それだけだ。」

 悲しげに歪められる顔に言葉を詰まりそうになる。ゆっくり差し出される手を払いたかったがゆらりと揺れ動く瞳に出来なかった。頬に触れる指先が微かに震えているのを感じ取る。今彼がどんな想いを抱えているのかを知りながらも刹那は沈黙を貫いた。

「俺はお前を手離す気はない。」

 真っ直ぐに向けられる瞳に一度固めた決意が崩れ落ちそうになる。けれど見破られる事のないようにとポーカーフェイスを崩すことなくそっと手を払いのけると静かに語り始めた。

「…手離すも何も…俺はあんたのものじゃない。」

 負けないように疑われないようにじっと見つめ返した。その瞳にロックオンを写し込み偽りはないのだと行動で示す。どれほどその状態が続いただろう?ほんの数秒の時間が永遠にも近い長い時のように感じられた。
 息が止まりそうな沈黙の中、先に視線を外したのはロックオンだった。

「これ以上変な誤解をされるのは戦いに支障が出る。」

 刹那が言葉を重ねる毎に彼女との距離が開いていく錯覚に陥り、ロックオンはただ唖然と紡がれる音を聞いていた。その開く距離に戸惑い言葉が紡げなかった。

「任務以外で話しかけるな。」
「な!?」
「俺もそれ以外喋る気はない。」
「ちょっとまて!おい!」

 ぐっと体を部屋から押し出され突然の動作に反応が一瞬遅れてしまった。よろけるように廊下へと出てしまう。目の前で無情に閉じられたドアに彼女の心からも閉め出された衝撃に襲われ、その場から動けずにいた。

 * * * * *

 次の日から刹那の行動は徹底したものだった。
 コンビネーションの確認やミッションに関する事を話しかければ即座に返事を返すのに、それ以外のことになると聞いているのか怪しいくらいに無反応になってみせた。いつもロックオンから一方的に話しかけている光景が常ならば、そんな二人の姿に違和感を感じることはほとんどない。
 けれど焦れたロックオンがその腕を掴もうとしても僅かに早く刹那がすり抜けていく。その動作は酷く自然に見えて誰も二人の異変には気付いていなかった。

「………」

 深いため息とともに談話室のソファに寝そべる。慰みに煙草を持ってきたが火をつける気にすらならなかった。刹那の部屋を閉め出されてから指先一本すら満足に触れていない。一定の度を越すようならば彼女がさり気無く逃げ、この手を振り払うのだ。
 相棒であるAIのハロに刹那の動向を探らせようとしたが、持って帰ってくる映像は今までとなんら変わりのない姿と対応で当てにならない。一つ引っかかるとすればいくらか和らいだ表情が以前よりもずっと頑なに動かなくなったことだ。皆には無表情だと思われがちだが、よくよく観察していればいくつも表情を浮かべている。ネーナ・トリニティに不意打ちの口付けを受けた時だって気にしていない風を装っていたが、ロックオンの目には酷く不快そうな表情をしていた。その日の夜にしがみ付きに来た程だった。

 変化があったのは間違いなく刹那の遍歴を聞いたあの日だ。

 『ガンダム馬鹿』だと揶揄したロックオンに刹那は「最高の褒め言葉だ」と笑ってみせた。その時までは今まで通り…本当に今まで通り真っ直ぐ揺らぎのない刹那だったはずだ。
 しかしあの日、ロックオンがトレミーに着艦した時には刹那はすでに格納庫から出た後だった。いち早く着替えに行ったのかと特に疑問に思わなかったが、時間を見計らって更衣室に行ってもいない。僅かな違和感と共に部屋を訪ねれば「疲れた」という言葉に納得をしてしまった。
 …それが間違いだったのかもしれない。

 果してあの刹那が「疲れた」と口にするだろうか?

「……はぁ…」

 また一つため息を吐き出して額の上で腕を交差する。すぐ隣に居たはずの彼女の存在が酷く遠い。
 銃を向けた時…確かに心の中は憎しみで支配されていた。仇を討ちたいと言った言葉に偽りはなく、トリガーを引きはしたが…刹那を撃つ事は出来なかった。まっすぐに見つめ返す瞳が、刹那の思いが心に染み渡っていくのを感じ取っていたのだ。そして銃口の向きをずらしたのは刹那に対して育った『確かな想い』があったからだ。

 瞼を閉じて振り返ってみる。

 長期任務に就いた時…クルー全員で無人島に遊びに行った時…共に出撃したりトウキョウの潜伏場所に尋ねた時…一緒に過ごした間に垣間見せた多くの表情と動作、言葉…
 それらは本当に嘘で塗り固めたものだったのだろうか?
 彼女の全てを理解しているわけではない。気持ちを知っているわけではない。分からない事はこれから分かり合えばいい。これから触れ合えばいい。
 そう思っていた矢先に知らされた刹那の過去。
 戸惑ったのも事実。動揺したのも事実。だが…それを凌駕する心があるのも事実なのだ。

 しかしそれを当の刹那に伝えたくてももう伝える術がない。
 いや…術を絶たれてしまっている。

 ぐるぐると巡る思考の中でロックオンはただ重く潰されそうになる想いを抱え続けるしかなかった。

 * * * * *

「…っ…ふぅ…」

 自室に戻ると刹那は糸の切れた人形のようにベッドへダイブする。誰も居ない空間で漸く偽りの仮面を脱いでいるのだ。それはAIのオレンジ色をしたハロに対してもだ。そこまで徹底しておかなければいつばれてしまうかも分からない。それでなくとも戦術予報師であるスメラギから訝しげな視線を投げかけられたりしているのだ。
 不意に話しかけられる度に、触れられそうになる度に折れそうになる意志を奮い立たせ続けている。今のところ戦いに影響が出ていないが…心が落ち着く事は一切なくなってしまった。
いつまた『彼から』何を奪うかもしれない恐怖がずっと付き纏っている。

 ロックオンといるようになってずっと考えていたことがあった。
 自分には…戦いしかないのだな…と。

 子供の頃から戦場を駆け回り、銃を抱えて硝煙と血と死の香りが充満した空間の中、ただ自らが生き延びることだけを考えて走り続けてきた。そして神に出会い、焼き払われた故国を出てきたのだ。
 だが今もまだ戦場にいる。
 …いや…戦場から一歩も外に出ていない。
 そんな己が…豊かな大地のような温かさと…命を育む清水のような瞳を持つ彼の傍にいる…

 …ダメだ…と思った。

 自分はいつか彼から何もかもを奪い去ってしまうだろう。
 温かな体温で包み込んでくれる広い胸…不安から遠ざけてくれる長い腕…子守唄のような柔らかな声…優しく見つめて来る瞳…たくさんのものを持った彼を…戦う事しか知らないこの手はそう遠くない未来で壊してしまう。
 その恐怖をあの日、はっきりと気付かされたのだ。

「……」

 ぼんやりと見つめる先に人の姿が浮かび上がる。

「…ろっくお…」

 自分で遠ざけておきながら…と自らの浅ましさに身を丸める。
 それはまるで…

 すぐにそこに迫った悪夢から逃れようとしているようだった。

 * * * * *

 ごつり…と鈍い音がしてその場に蹲った。今この瞬間を誰にも見られていないのが幸いかもしれない。
 廊下の角を曲がったところで足の小指をしこたま強くぶつけてしまったのだ。声にならない声を上げてぶつけた所を撫で摩る。

「微重力でぶつけるとか…俺の足って器用…」

 涙目にそのまま廊下に座り込んだ。ずきずきと痛みを訴えるのは足だけではなく顔の右側も痛い。その上視界が極端に狭く遠近感が掴めずに肩や腕をよくぶつけていた。

 それもそのはず…先の戦いで右目を使えなくなったのだ。

 しかしだからと言って今頃ソレスタルビーイングを抜ける事も戦いから抜ける事も出来ない。
 例え命令だったとてする気もないが…

「……はぁ…」

 一つため息を漏らして寄ってしまう眉間の皺をぐりぐりともみ消す。痛み止めが切れてきているのだろう、一向に治まらない痛みが思考を蝕んでいるが…ロックオンは薄っすらと笑みを浮かべた。

 正直言えば痛みによって何も考えられないのが楽でいいと思っているのだ。
 体は辛いが心はまだマシに感じられる。そんな考えに自嘲じみた笑みが浮かんでくる。

「しっかりしろよ…年長者…」

 立てた膝に腕を乗せて顔を埋める。ティエリアを励ましてきたはいいが、己の方がままならない状態だった。
 刹那と数日前に二人きりで話して以来徹底した避けっぷりに途方に暮れているのだ。そうこうしている間にも激しくなる戦いに接触する機会すら見つからなかった。焦れる心を抱えたままに今回の負傷だ。
 仲間を庇った傷とは言え、なりふり構わな過ぎた。今の自分がいかにアンバランスであるかを見せ付けられたような気分になってますます心が沈んでいく。

「生きてるか?」

 降って来た声にビックリして顔を上げると眉間に皺を寄せたモレノが立っていた。こんな近くにこられるまで人の気配にも気付かないとは…とますます落ち込みそうになる。

「生きてますよー?」

 にへらっと笑ってみせるも重々しいため息を吐き出されてしまう。これは説教を喰らうかも…と必死に笑みを貼り付けていると紙袋とともにボトルを渡された。

「だったらもっとマシな顔色をしておけ。」
「……んな無茶な…」

 今の自分の状況を理解してはいるが、今カプセルに戻されるとそのまま強制的に治療を始められてある種の監禁をされてしまいそうなので思わず警戒してしまう。

「んで…これは?」
「今頃自室で痛みに蹲ってるはずの患者に渡しに来たんだ。」
「そりゃどうも…」

 手渡された袋の中身を見てみれば今まさに必要としている痛み止めの錠剤だった。するとこのボトルは水か…とさっそく1錠取り出して口へと放り込む。即効性ではないだろうからもうしばらくはこのままか…と気まずげにボトルへ口を付けた。

「それで?何したんだ?」
「はい?」
「飼い猫の機嫌を損ねたんだろう?」
「…えーと…」

 座り込んだすぐ横の壁に凭れかかったモレノが白いハンカチを渡しながら話かけてくる。それを受け取って頬を伝い流れる汗を押さえつけて誤魔化すように口元を覆い隠した。どう言ったものか…としばし考えていると…

「…あ…」
「ん?」

 すぐ上で聞きなれた声がして顔を動かす。狭い視界にその主を映し出すとリフトで移動してきた刹那が浮いていた。まともに見た顔にじっと見入っているとぱっと背を向けて来た道を帰っていってしまう。その後を追うように無意識に伸びた手が宙に浮かんでいた。

「…随分怒らせたんだな?」
「え!?」

 傍にモレノが居たことをすっかり忘れて感傷に浸ってしまっていた。我に帰って浮いた手を戻してもすでに遅いのだが…

「お前の方が年上なんだからもっと我慢するとか控えるとかしてやれよ。」
「な、何の話…っ!」
「ま、冗談はこのくらいにして。」
「どこからどこまでが!?」

 医者のいう事を聞かずにふらふらした罰を与えられたのか、単に遊ばれただけなのか…散々振り回されてしまいがっくりと項垂れてしまう。何一つとして良い事がない…とグレてしまいそうだ。

「首輪をしておいたんじゃないのか?」
「……いやぁ?したと思ったらすり抜けられてましてね…」

 随分痛みが薄れてきたところでゆっくりと立ち上がってみる。体はなんとか動きそうだが心がたった今血を垂れ流し始めて顔をしかめてしまう。それでも誰かがいる為の条件反射なのか笑みを浮かべようとして痛々しい笑みになっていた。それをサングラス越しに見ながら空になったボトルを受け取る。

「…手離すのか?」
「…そんなつもりはなかったんですけどね…」
「?過去形?」
「俺のものじゃないんですって…」

 向けられた顔は『笑み』の類を浮かべているがその瞳が光を失っているように見える。どうやら彼の方からは何も出来ることはないらしい。一つ小さく息を吐き出す。そうでもしないと暗く深く沈む空気に押し潰されそうだから…

「刹那も思春期だしな。悩みの一つや二つ出来るか。」
「………」
「その内相談に来るだろ。」
「……まさか。」
「来るさ。刹那にはお前だけだろうからな。」
「…だといいですけどね…」

 モノレの楽観的とも言える発言に思わず嘲笑を上げてしまう。痛みに揺らいでいた頭も治ってきたので部屋で安静にする事にした。とりあえず話し相手になってくれた事に軽く会釈をしてその場を後にする。

 廊下に一人残されたモレノは今しがた見た二人を思い浮かべながらポツリと言葉を溢した。

「…隣に居た私に気付かない程にな…」


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